高校時代 2016年08月28日 回想 浪人時代2 今日の我がパソコン調子よさそう。 まだまだドラムとはほどとおい記事になるがドラムにもっていくためのまえおき賭して書きたい。 はなしはまた浪人時代(1964年)に遡る、私は元来物に超興味があり時計やラジオ等中がどんななのか見たくて見たくてチョットした隙間があればよく中を覗いたものだ。 そのころ那覇の予備校通う毎日でバス賃をきりつめ(たまには親の財布)ラジオを組むための部品買いに熱中、授業そlちのけで考えるのはそのことばかり。 浮島通りにひっそりたたずむ土井ラジオ店とゆうパーツ専門店がありその店のショウケースを通り越しによく眺めていた頃を想いだす。 或る日の帰りその店に寄る(部品を買うため) 「抵抗下さい」 「何オーム?」と聞かれ 「1Mオーム(1ミリオーム)と答えた 「そんな物はない」、と一括、君もっと勉強して来い言われる始末、ドギマギしている私の手にしたメモを見て、これはメガオームと読むんだよ教えてくれたんけど、それからがたいへん 「ところで君何を作ろうとしてるの?」 「ラジオ」 「どんなラジオ?」 私は通販で買った初歩の」ラジオの製作とゆう古ぼけた本がありその中の記事から作る予定だった。 知識のなさを見抜かれるがままに「君物事には順序とゆうものがある、私の言う事きけば必ず成功するから」と 最初にこれを買いなさい手渡されたのがトリオ(後のケンウッド)並3コイルと書かれたものだった。 早速持ち帰り開封説明書見ると実体配線図がついてて、これなら私にもできると確信、塾の行き帰り1日中考えることは部品手にしたこばかり、早くお金タマランカナーとゆう思いだった。 コメント(0) 続きを読む »タグ :土井ラジオ店電子部品 Tweet
高校時代 2016年08月27日 回想 高校時代2 工高時代2の書き込みに勇んで開始その直後ウインドウズ7かってにシャットダウン修復に約一時間AM5時になる、アーモッタイナイ。 更新のため過去にもどす。 工業高校には実習・製図成るものがあって入学時にそれに必要な工具(電気工事等にに必要なペンチ類)や製 図用具一式等を各々持たされ(実際には買わされ)それらを手にしては実習への期待に1年時は電源トランスのコイル巻き 二年時には・・・三 年時にはテレビの組み立て等があって早く三年生になればいいのにと胸膨らんだのが懐かしい。 コメント(0) タグ :ウインドウズ7製図用具 Tweet
高校時代 2016年08月26日 回想 高校時代1 東京五輪の翌年はれて沖縄工業高校電気科生に、電子科志望のはずがあまり興味のない電気科とあいなるがいかんせん入試の成績も今一だったし、電気でも合格したのだから頑張ってみようと振るいたったのだが・・・・ 入学初日担任となったS先生に早退願い、入学早々の早退願いに戸惑った感があったように記憶している。 その日やりとり 「先生早引きしていいですか?」」 「どうしたんだ?」 「家庭裁判所に呼ばれています」 「何で?」 「無免許で捕まりました」 (入学前の休み期間中に先輩のバイクを運転 補導され那覇署へ連行) 先生おどろいたようすで 「君 大変な事をしてくれたなー」 「早速行ってきなさい」 裁判所でのやりとり全く想い出せないが その時の事は先生も聞かなかったし 私自身何事もなかったかのように授業を受けていた。 今思えば何事も起きなかったのが不思議としか思えない。 コメント(0) 続きを読む »タグ :沖縄工業高校電気科電子科 Tweet
回想 2016年08月25日 回想1 浪人時代 開設2~10日目 さて何を書こうか思案 なかなかひらめかないものである ドラムとは関係ないが かってないメダルtラッシュのリオ五輪にしようか 半世 紀前1964年の東京五輪にしようか、リオ五輪は大勢のブロガーの皆さんが素晴らしい文章でまとめてるとおもうので50年前に遡ってみるこ とにする。 ワイド画面でオリンピック見ようとコマーシャルで流れた時代で(当時のテレビの主流は四隅が丸みを帯びた14型)あった。ちなみに本土で はオリンピックをカラーで見ようだった。 そのころの沖縄はマイクロ回線の実現によりやっと本土と同時に放送が見れるようになったころである。(ちなみに我が家のテ レビはもちろん14インチでワイドとはかなりかけ離れたものだった)。本土との格差かなりあったものだと今さらながら感じる。 その年は高校進学にスベリ浪人中の身で暇だったせいあって朝から競技中継にくぎずけ、思い起こせば次々と名場面次々うかんでくる。 体操日本、水泳日本、お家芸柔道(東京大会より種目に加わる)と言われていた時代であった。 日の丸を背負った選手達の活躍に感動しきり、 陸上トラック男子100M、女子80Mハードル(依田郁子5位入賞)と、フィールドの死闘9時間にも及んだ棒高跳び 体操個人総合遠藤幸雄金メダル 柔道無差別級で神永五段銀メダルがアントン・ヘーシンク押さえ込まれじつに悔しいおもいもした、鬼の大松と言われた大松博文監督率いる金メダルに輝いた女子バレー回転レシーブ、に一喜一憂したものであ 最も忘れられないのが男子マラソン2位で国立競技場入ってきた円谷幸吉ゴール前の残り一周ヒートーりーとのレッドヒート(当時400トラック1周してゴール)に手に汗 握る感動を今も鮮明に憶えている、オリンlピックマラソンで初めての日の丸を掲げた。 次のメキシコは金だ日本中が沸いた しかし大会前に 自ら 命・・・・ ピンク・ピクルスの一人の道の詩の中に・・・誰のために走るのか・・・もう走れないこれ以上は走れない を耳にしたとき日の丸を背おった アスリートの悲哀を 感じ泣かされた。 東京大会ではないが ある五輪大会である日本の代表選手に日本のある記者が「メダルの手応えは」? 「アナタガヤッテミタラ」 と一蹴 全く思いがけないその 光景にj重圧に耐えながら出番を待つ選手の言い知れぬ緊張感を感じたものでである。 ナイヌブンガンバレーシムサと応援しよう そうしてるつもりだがついつい憂いが・・・・・・ 反省 勝敗にかかわらず応援は最後ま で労をねぎらつつ。 コメント(0) 続きを読む »タグ :東京オリンピック依田郁子円谷幸吉大松博文ピンク・ピクルス柔道体操 Tweet
2016年08月08日 初書き込み 8月7日 悪戦苦闘しつつようやく己のブログ開設に至る、やればできるものだと一人で感心しきり。 国語に疎いわたしだが書き込みに励んでみたいと思う とひとりでうなずつつ頭の中はこれから何を書いていいのやら・・・・ 画像の投稿もままならず、なんとも殺風景だが まずはこれから・・・・・・ コメント(0) 続きを読む »タグ :ブログ開設てぃーだブログ Tweet