ZEN-Aドラム教室 ドラム一筋 津嘉山善栄ドンバー稼業

ドラム叩いて幾十年 過去の方がながーい歳になり ドラム始めたころの事から つぶやいてみようかなー・・・・・ 或る時仕事何してる?と聞かれバンドしてると言ったら外に良い仕事ないのと云われた・・・

< 2024年04月 >
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てぃーだブログ
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回想

工高時代13

その頃テレビやラジオ、街中でテッテケテケテケと聞こえるようにベンチャーズである、それに輪をかけるが如く空前のエレキブーム到来となり、巷にエレキ少年等が現れエレキ大会とゆうもが 行われるようになった、追っかけのはじまりである 私の徘徊ぐせは昼から夜型へ移行ピークに。エレキ=不良 もその頃誕生した。
当時那覇市内には何とか会館とゆう貸しホールがありエレキ少年等がそこを貸しきって演奏する(今でゆう自主ライブ)のである、ケータイもない時代にこんな情報をどんなふうに聞きつけたか知らないが大会はいつも満員だった。
友人等とエレキ大会の情報を得るのに必死だった どこそこであると知ればそこへ駆け込んだものである。

回想

工高時代12


その頃の電気科の面々送受信機やステレオアンプ製作にはまる学友もおり彼らと電子部品店や電気店巡りも楽しかった思い出の一つである。
パイオニアやコーラル、フォスター等の高価なスピーカーユニットやパーツ店に居並ぶ真空管を何時かはと眺めたものである。
思い起こせば私の場合市街ち巡りといおうか徘徊といおうか2パターンありクラスメートの場合と他科の学友とにわかれ、その二つが私のバンドマン稼業の一端になったように思う。

回想

工高時代11

 コンクールも終わりさぼり癖復活、友人等(電気科外)と市街へと繰り出す、目的なあろうはずもなく ただ友人等と散策したりある時は路地裏でたむろしたりでそれは楽しかったものだ。
 散策するなか ある本屋さんでスクリーンとゆう雑誌に目がいく表紙にボサボサ頭の男4人が大太鼓を前に立っていた、男4人に興味があったわけでなく前を向いた大太鼓が気になり例の如く立ち読みページめくりながら思った大太鼓が何故に革を前にしてるのか?私が叩いた大太鼓は両面の革は前から見ると革が見えるはずもなく打ち手が横から叩くので正面から見ると胴しか見えない、しかし雑誌の中の太鼓はどう見ても革が前を向いているどんなにして叩くのか実に不思議でならなかった。
 そのとき この4人が一世を風靡したビートルズで大太鼓前にしたのが名ドラマー
リンゴ・スターだと後で知ることに。

回想小太鼓

工高時代10

 あれやこれや時を過ごすなか全音の打楽器教則本(打楽器奏者がこぞってに手にするとおもわれる黄色本)をひもときつつ2つ打ちにぶちあたる、これまで1つ打ちは4分8分の休符移動 (できなかったが16分だと1拍ずつまる覚えで一応できた) をさけひたすら連打のみに終始、 そのうち2つ打ちと相成ったのだが 「2つ打ちどんなの?」残念ながら我がバンド部には叩ける専門知識のある者は居ず何でも自分でやるのが日課だった。
 タンタンカンカン・・・・まるでダメ全くできない、片手で2つずつなんて そんなの打てるわけがない、とさっそく放棄 またひたすらタカタカタカタカ・・・
性格上できないのは直ぐに御預け、時が解決してくれるハズと・・・、その癖は今も変わってないみたい。
 肝心の学業、はとゆうと数式につまずきニッチモサッチモいかない状態に陥り幾つかの赤点もちつつどうにか2年に進級したのだが・・・、
バンド部では小太鼓を独占、部長の宮城氏筆頭に少ないメンバーながら各種コンクールに出場、参加することに意義あり、そんな感覚で頑張った。
 いい経験を積んだと思う反面、思い切り恥ずかしいような寂しいような想いも在る、それは  当時西部(現在九州)吹奏楽コンクールとゆうのがあって私共バンド部も小編成の部で参加させてもらった、課題曲は小太鼓に16部音付が多用され打楽器がかなりフィ-チャーされた楽曲だったような記憶(なんせ60年も前の事)があるが、自由曲はすっかり忘れてしまった。
 
 その頃の会場といゆうと当時市民会館など大きなホールがなく コンサートとゆうと那覇だときまつて琉大体育館、中部はズケラン体育館だった、私共バンド部も滞りなく演奏を終え気になる結果を待つのみとなった、結果発表はとゆうと今の県庁(当時政府前広場)で行う為なんとそこまで国際道りをパレードしながら行くとゆうのである、私共バンド部も数少ない行進曲のレパートリーを頼りに真和志中学に集合 いざ出陣 私共バンド部 運悪く中学生の大編成(40人以上)のバンドに挟み撃ちに遭い前も後ろも豪快な音に挟まれ超目立たない存在に小編成でしかもレパートリーは数曲 おまけに肝心要の大太鼓の担当がチュウニングキーを忘れる始末ペラペラ音のまま行進、沿道の拍手はあたかも私共バンドには無く(そんな事は無かったはずだが)前後に送られた様な感じに囚われたパレードに、コンクール結果は覚えてないが、其の事だけは今でも鮮明に・・・
 
  

回想

工高時代9

 大太鼓に落ち着いたろ隣の小太鼓がやたら気になりだした(いい意味で)、ドンと打つとタッと答えるかのようにドンタッ ドンタッ ドンタカタンタッてな具合に実に気持ちが良いのである、或る時小太鼓の先輩にお願いし演ってみた、なんと大太鼓のドンドンの間にタッタッと入れない、ドンタッドンタッすぐに大太鼓と同時に打ってしまう始末 それからとゆうもの小太鼓にはまり猛練習したものだ。
 数習慣費やし第一関門無事通過したものの そからが大変 無理難題が待ち受けていた・・・

高校時代回想

工高時代8

 私の場合体育系が嫌いになった唯一の理由がある。
それは小学1年の運動会、運動会の花といえば走り競争 PTAの親たちも我が子の走りになりふりか舞わず声援を送る姿が思い浮かぶ。
その競争で一生懸命走った、たまたま後ろを振り向いた、誰もいなかlた。
 と結うわけから運動コンプレックスはじまったと思う、特に体力測定で鉄棒での懸垂(一回もできなかった)、50M(スピードに全く自身がなかっ
lた唯一の救いは独りで走っての測定だった)、跳び箱(三段も飛べなかった)等 何時もドキドキ超胸が痛んだものだ。
いまでいう登校拒否したくらいだったのを覚えている、しかるに私は運動音痴をひきずったまま高校まできたのだろう。
 それがあったからドラムとゆう楽器にめぐり合いバンド稼業で現在に至るのだから、人生ってほんとに不思議なものですね!

回想

工高時代7


 
 2学期もややおちつき体育祭の練習が始まった(沖工高場合2年越しに体育祭、工業祭と行われた)そもそもわたしの楽器との出あいは音楽と全く関係がなく体育祭がきっかけである。私の場合体育系が大の苦手で無くても良いのにと思うほどだった、或る日最も嫌いな体育祭の練習させられている時バンド部の面々(クラスメートも数人)は日陰でバンドの練習しているではないか、出たくもない運動場にはこれしかないと思い数日後 部長(自動車科 前田先輩)に面会、テナーSAX(カッコよくみえた)吹きたいと入部を申し込む、面接の末与え
られた楽器なんと思いもよらない大太鼓であった。、
体育祭に出されるよりは ましかと我慢 晴れて入部に至った。
 大太鼓なんて叩けば鳴るし誰もが打てると高を括る、いざ2拍子の行進曲1.2.1.2覚束ない手で ドンドンドンドンなかなか打てない、あらためてリズム感のなさを知ることに。
 そんな訳で打楽器に勤しむようになったしだいである・・・

工高時代6

 そもそもわたしの音楽を聞くという行動は手作りラジオからやれ低音だの高音がでてないだの から始まったわけで かんじんの楽曲は何でもよかったといえる、しいて云えばメロウな感じの曲は好きだった・・・
新作の6V6ppのモノアンプ、半田ごて片手に配線眺めつつ 偶に感電しつつ胸ワクワクの世界があり今ではそれをオタクとゆうのだろうか?
 疾駆八苦しながら完成したアンプ アルミシャーシに山水の電源及び出力トランス、電解コンデンサ、大小の真空管を配列、 今にも良い音出してくれそうな実に美しい仕上がりとなったのだが、
 自作のバスレフ(単にカッコよくみえた)に音響製の3ウェイコアキシャルスピーカー(先輩から譲って貰ったが未だ払ってない)と
例のナッショナルのプレーヤーで音始め、低音それなりに期待のシンバルが出ず、出たのはわずかではあったがヒータからのハム、だった。
 結局美しく仕上げたはずの配線をやり直す始末 あらためて配線の難しさを知ることに・・・
すったもんだで完成にこぎつけた作品は2年後にシッチョウルー(知人)宅に持ち出し試聴、取りにいったら引っ越した後だった、其の後一度もあったことがない。

回想

工高時代5

 はれて念願だったボタンダウンの綿シャツで登校、悦にはいったものである。その頃から街中でのはいかいが始まったような・・

アンプのほうも5級ラジオに6BM8とゆう組み合わせでラジオにけがはえた程度だったが山水のトランスでまとめた6V6ppステレオでいっきにグレードアップを計ったがバイトの駄賃では足りずモノラルに計画変更。
、入学祝いに長姉に買って貰ったナショナル(現パナソ二ック)のターンテーブルとは言いたがたい単なるレコードプレーヤーだったが4角にスプリングのインシュレーター やや厚みある25センのターンテーブルにパイプアームがのりセラミックカートリッジの付いた今にもシンバルが聞こえてきそうなユニットでケースは自作、私しにとってはかなり高価な代物だった。 今でも長姉に感謝・・・

高校時代

工高時代4

 高校初の夏休み建設現場で土方のアルバイト、目的は当時流行ったVAN製品のコットンで仕上げたアイビーシャツともちろん山水のパワー及び出力トランス購入するため30日間無心に働いたものである。
 そうでもしないとシャツと言えども高価すぎて手を出せる物ではなかった、ましてやVANとなると とてもとても・・・

当時の建設現場とゆうとそんなに機械化されてなくスコップ、ツルハシを手に殆んど人力でそれはそれは疲れたものだが目的達成のため我慢もできたと思う。
 画して数ドルのシャツと数十ドルのトランスが手中に!
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プロフィール
tukazen
tukazen
 H1年からスタートしたヤマハ大人の音楽レッスン講師をH26年に定年退職。    

退職に伴い自己のドラム教室ZEN-Aスタジオを開設 ライブ活動とドラムレッスンで現在に至る。